小泉牧師の一族訪沖記【2022.12.27-30】

①対馬丸記念館

 発端は、三重で学校教員をしている姉が、母が元気なうちに、沖縄に行ったことのない母を沖縄に連れて行きたい、と云いだしたことでした。わたしのきょうだいは姉ひとりと弟2人。例年お盆と、年末か年始に母がひとりで暮らす滋賀の実家に集結するのが習慣です。その”大集合”を、滋賀ではなくて沖縄にしようというのです。ちなみにきょうだいの中で下の弟とわたしのふたりが牧師なのですが、今年のカレンダーは、12/25のクリスマス礼拝の後、1/1まで礼拝がないこと。そして9人いる子どもたちの世代に、今年は誰も受験生がいなかったことから、決行するなら今年しかない、と姉が大号令を下したのです。
【対馬丸記念館】
 今回の旅は一族三世代16人。その目的は、戦争に翻弄されてきた沖縄の過去と今を知り、沖縄の方々に出会うこと。
 初日、三重、京都、熊本、函館からそれぞれが那覇空港に到着。宜野湾セミナーハウスの又吉京子さんがセミナーハウスの大きなクルマで出迎えてくださいました。半日先に到着してレンタカーで待っていた下の弟家族と合流し、まず向かったのは対馬丸記念館。沖縄戦の資料館としては比較的新しく、2004年の開館です。それには理由があります。1945年に激しく戦われた沖縄戦の前年の1944年。沖縄での“決戦”を前に、本土から多くの兵隊が沖縄に送り込まれました。そしてその反対に、戦争の足手まといになるような市民や子どもたちは、九州各県に疎開させるというのが軍部の方針だったのです。故郷を離れたくない、と疎開を忌避する空気もある中、対馬丸は44年の8月21日に1788名の乗員を乗せて那覇軍港を出航します。そのうちの834名が学童疎開の子どもたちでした。しかし海上は既に戦場となっており、子どもたちの疎開船であることは米軍には知る由もありません。沖縄に兵員を運んできた対馬丸は米潜水艦の攻撃対象となり、出港翌日の夜10時過ぎに魚雷攻撃によって海に沈められたのでした。乗員の約8割にあたる1484名が犠牲になったと云われ、そのうちの784名が学童疎開の子どもたちであったとされていますが、当時は細部にわたる被害実態調査がなされなかったため、その正確な数字は今もわかってはいません。
 その理由は、対馬丸が撃沈された後、事件について「決して語ってはいけない」という厳しいかん口令が敷かれたからです。撃沈が公けになると、その後の疎開計画がすすまなくなり、厭戦機運が高まることを軍部が危惧したからだと云われています。そのことは、なんとか生き残ることが出来た約280名の生存者に、新たな苦しみと深い傷を負わせることになりました。
 記念館の方が紹介してくださった当時19歳の代用教員だった方のお話しが心に残りました。彼女は自分のクラスの子どもたち19名とともに対馬丸に乗船し、その19名全員を失って自分だけが生き残ってしまったのです。なぜ子どもたちが全員死んで、自分だけが生き残ってしまったのか。ずっと子どもたちの親から責められ続けているように思えた。子どもたちはなぜ帰ってこないのか、その理由である撃沈の出来事自体が、かん口令のために誰にも話すことが許されず、どんな顔をして親と顔をあわせて良いかわからない。生き残ってしまったことが申し訳なくて、親に会わす顔もなくて、戦後ずいぶんと長い間、那覇の市場を歩くことすら出来なかった、というのです。
 今回、初日にガイドしてくださった又吉さんは、わたしが東京でNCCの仕事をした頃、くりかえし沖縄からやってきて基地問題を語ってくださったお知り合い。今回初日の宿泊場所であった日本基督教団沖縄教区の宜野湾セミナーハウスの館長さんです。戦争の犠牲になった方々を覚える記念碑が沖縄の各地にある中、もっとも罪のない子どもたちを覚える記念館が一番最後まで出来なかったことは残念でならない、と語ってくださいました。戦争は、闘いの最中だけではなく、後々になるまでその傷を深く残していくものなのだと改めて思わされた、対馬丸記念館の訪問でした。対馬丸記念館は、那覇市内の比較的アクセスしやすい場所にありますから、沖縄旅行の機会があれば訪ねてみることをおすすめします。

【ベツテルハイム博士居住之趾】日本キリスト教史ではプロテスタント教会の日本宣教開始は1859年の聖公会の2人の宣教師の来日に端を発するということになっています。しかし沖縄では1846年に琉球王国に到着したハンガリー人ベッテルハイムがキリスト教伝道に取り組んだことが知られており、彼の記念碑が残されています。

②普天間基地 嘉数高台

 沖縄に到着した日に対馬丸記念館を見学したわたしたちは、その足で那覇から宜野湾市に移動。嘉数(かかず)高台に登りました。沖縄戦の最初の激戦地となり、両軍に多くの死傷者を出した場所でもあります。この高台の展望台に上ると見下ろすことが出来るのは、眼下に広がる広大な米軍普天間基地です。この日はまだクリスマス休暇だったからか、飛行機の発着はありませんでしたが、以前わたしが訪問したときには、爆音を上げて戦闘機が離着陸していました。一旦飛行機の発着がはじまると、しばらくのあいだ全ての会話を中断せざるを得ません。普天間基地は宜野湾市のまん真ん中にあって、周囲にはいくつもの教育施設が取り囲んでいますから、飛行機の発着のたびごとに、授業でも職員会議でも、くり返し中断しなくてはならないのです。世界中探しても、こんな市街地のど真ん中にある基地は他にはありません。2004年には沖縄国際大学のキャンパスにヘリが墜落したほか、近年もバプテスト教会系の保育園の園庭にヘリの大きな窓枠が落下するなど、世界で最も危険な米軍基地とされているのです。
 ガイド下さった又吉さんのお話しを伺っている最中に、たまたま近くにおられた沖縄の男性が「こんなひどい基地は世界中捜してもどこにもない。米軍は自分の国では絶対しないような危険なことを、沖縄に押しつけてるんだ」、と話しかけて下さったことが心に残りました。
 この夜、わたしたちは宜野湾セミナーハウスに宿泊しました。コロナでさまざまな研修なども中止となり、久しぶりの平和ガイドだったそうです。コロナ下でのセミナーハウスの経営の大変さなども伺い、身につまされるものがありました。

③糸数アブチラガマ

 翌朝、セミナーハウスを出発したわたしたちは、2台の車に分乗して沖縄の南部戦跡を廻りました。案内して下さったのは宜野湾セミナーハウス内に礼拝堂がある志真志伝道所の望月智牧師。わたしが学生時代に関西のエキュメニカル運動をともにした先輩であり友人です。まず訪問したのは糸数アブチラガマ。沖縄に数多あるガマと呼ばれる鍾乳洞のひとつです。最初は地域の人たちが避難場所として用い、緒戦に敗れた日本軍が南下してくると陣地壕や倉庫として、さらにその後陸軍病院の分室となり、軍医や看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mの壕は600人を超える負傷者で埋め尽くされました。日本軍が放棄して立ち去った後には、生き残った地域の住民と傷病者が戦闘終結まで残され、ここでも多くの方が亡くなられました。手に持った懐中電灯を消し、ガマの中でほんとうの真っ暗闇を体験すると、しばし時間と空間の感覚を失うかのようで、思いは人生を断ち切れられ、あるいは生き残されることによって重荷を負われた方々の見えない影へと向かいます。沖縄でしばしば語られるのは、軍は民間人を守ってくれなかった、という経験です。沖縄では日米で20万人が亡くなった(殺された)とされていますが、亡くなった日本人19万人弱のうち沖縄出身者が12万人強。そのうちの9万4千人が民間人だったのです。沖縄戦は、もともとが本土決戦を先延ばしするためだけの勝ち目のない「捨て石作戦」で、日本軍は沖縄の人たちを守らないどころか、軍人のための「戦陣訓」である「生きて虜囚の辱を受けず」を民間人にも強要し、そのために多くの沖縄の民間人が「強制集団死」などの「自死」を強いられたのでした。親が子を、子が親を、きょうだい同士が殺し合う凄惨な出来事が、ガマの暗闇や沖縄南部の赤土に、記憶として刻み込まれているのだと思えました。

④ひめゆり平和祈念館

 戦争末期の1945年3月末、沖縄陸軍病院に看護補助のためにふたつの女学校から動員された生徒(師範学校と高等女学校から引率教師18名含め240名)たちのことを「ひめゆり学徒」と呼びます。5月末、戦況の悪化とともに病院は放棄され、生徒たちは日本軍とともに南部へと逃れていきます。「鉄の雨」と称された山の形が変わるほどの艦砲射撃の中、彼女たちは、先述の糸数アブチラガマをはじめとした各地の洞窟の中などで負傷者の看護にあたったのでした。戦局はまもなく絶望的になり、6/18には学徒隊にも解散が命じられます。とはいえ沖縄のほぼ全土を米軍が支配し、激しい砲撃に晒される中、地下壕から出ることが死に直結するような状況の中での解散命令でした。解散を命じられても壕から出ることもままならないまま、学徒隊の死者のうち9割近くが解散命令後に亡くなられています。240名の学徒隊のうち、実に136名が戦争のために亡くなりました。最も被害を受けたのが第三外科壕で、解散命令翌日の19日、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名のうち87名が亡くなり、脱出した人たちも銃撃を受けるなど、この壕にいた人たちのうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずか5名にすぎませんでした。
 また、ひめゆり学徒以外にも他校の生徒を集めて作られた学徒隊は各地にあり、こうした学徒隊もほぼ同様の運命をたどったといいます。
 わたしは、ひめゆり平和祈念館の訪問は2回目でしたので、資料等は素通りし、生き残った「語り部」の方々の証言動画を見ることに時間を費やしました。当時のことを振り返りつつ語られる証言はどれも重く、それは、生き延びて物語ることが出来なかった、彼女たちの仲の良かった少女たち空白の時間をも背負って生きてこられたからなのだろうと思われました。口々に、「どんなことがあっても戦争はだめだ」、と繰り返されるその言葉の重みを、改めて心に刻んだひとときでした。

⑤魂魄の塔・平和の礎

 沖縄には、戦没者を覚える碑がたくさんあります。その中で最も早い時期に建てられた沖縄最大の塔かつ墓地のひとつが糸満市にある魂魄(こんぱく)の塔です。沖縄戦末期の6月下旬になると日本軍も沖縄の住民も南部の狭い地域に追いつめられていきます。最南端にあたる糸満市周辺は、海と陸と空からの猛攻撃を受け、逃げ場がないまま多くの人たち亡くなられた場所でした。戦闘終了後、地域の人たちは強制収容所に送られ、亡くなられた人たちの遺体はそのまま放置されます。1946年1月になって帰村を許された人たちが帰ってきたとき、道や畑の至る所に遺骨が散乱したままだったのです。名前もわからない遺骨の収集事業が始まり、それら3万5千人もの遺骨を納めたのが魂魄の塔でした。1975年、この塔の遺骨は各地の遺骨を集めた那覇市の戦没者中央納骨所に集約されましたが、今でも沖縄慰霊の日である6月23日には多くの遺族が沖縄戦でなくなった家族を覚えてこの地に集まるのだそうです。
 沖縄でも、特に激戦地となった南部には、かつて沖縄戦を戦った元兵士が同じ出身地の戦没者を覚えるために建てた碑が各地にあるのですが、その内容は様々で、自分たちが戦った戦争を美化するような碑文も少なくなく、考えさせられます。20数万人が亡くなられた沖縄の赤土には、収集しきれなかった方たちの遺骨が残されていて、今もボランティアの人たちがその収集を続けています。ところが昨年になって、その沖縄南部で土砂を採取し、それを現在埋め立てがすすめられている辺野古の基地建設に使おうという計画が明らかになりました。遺骨収集ボランティアを続けてこられた具志堅隆松さんという方が、「戦没者のご遺骨がいま防衛省によって海に捨てられようとしています。どうか助けてください」、とハンガーストライキを行うなどして声をあげ、各地の自治体の議会でも反対決議があげられるなど、反対の声が広がっています。
 そして1995年、沖縄戦終結50周年を覚えて沖縄島南端の断崖絶壁の海岸に面する平和祈念公園内に建てられたのが、平和の礎(へいわのいしじ)です。「鬼畜米英」と教え込まれ、「生きて虜囚の辱めを受けず」と命じられた多くの沖縄の人たちが、北から迫る米軍に追い詰められ、絶望の中で断崖から海に飛び込んで命を落とした場所でもあります。ここには、国籍・軍人・民間人を問わず、「沖縄戦での戦没者の全ての氏名」、24万1,632人(2021.6.15現在)が刻まれており、今も亡くなられた方の氏名が判明する度に追記されています。中に「和宇慶朝教の息子」といった名前のないものがあるのは、集落の人たちみんなが亡くなってしまい、幼い子どもの名前が判明しないままであるからだそうです。今回、これ以外にもあちこちの碑を見せてもらったのですが、望月牧師に丁寧に説明してもらうことによって、はじめてそれぞれの碑の意味や位置づけを知ることが出来ました。なんとなく訪ねただけではわからない碑の意味、つまり沖縄戦の受け止め方の意味を知ることが出来たのは、こうした平和ガイドの働きあればこそと、感謝の思いを新たにしたのでした。

⑥佐喜眞美術館

 はじめて沖縄に行った2011年、どうしても行きたいと思い、会議の合間を縫って友人に案内してもらった佐喜眞美術館に、今回は家族とともに訪問しました。はじめて訪問したときの思いを綴った報告を一部引用します。
 『この美術館の展示の中心をなす、丸木ご夫妻の手による「沖縄戦の図」を観るためである。小さな美術館の、一番大きなホールの中心に展示された「沖縄戦の図」は、その絵の存在感だけで観るものを圧倒する。しばらくは言葉を発することが出来ない、という経験であった。もちろん絵が言葉を発することはないが、その存在だけで圧倒的な想いを語っている。案内してくれた友人が、この巨大な絵に描かれた部分部分の意味を、少しずつ説き明かしてくれる。そうすると、この絵に込められた丸木ご夫妻の思いのひとつひとつが、具体的なメッセージとなって伝わってくる。この絵に、兵士が描かれてはいないこと。戦争で心をなくしてしまった人たちが、どのような行動をとることになったのか。絵の中心部に描かれた3人の子どもたちに託された想い。折り重なった髑髏に紛れて描かれているご本人たちの自画像。この絵を描くためにどれだけのエネルギーが必要であったのか想像しがたい。きっと独りではなく、おふたりであったからこそ描き抜くことが出来たに違いない。友人の解説に耳を傾けていると、この美術館の館長さんがご挨拶に来てくださった。粘り強い交渉によって米軍から先祖伝来の土地を取り戻し、そこに沖縄にこだわった平和のための美術館を建てられた佐喜眞道夫さんである。名刺をいただき、「健軍教会(甲佐教会兼務)」と記してあるわたしの名刺をお返ししたことから、佐喜眞さんが実は熊本県甲佐のお生まれであるのだ、という話を聞かせていただくことになった。1994年、「沖縄決戦近し」、という状況の中で、沖縄の「老幼婦女子10万人」を本土に疎開させる、という計画が発動され、佐喜眞さんの一家は、船に乗せられ、九州の甲佐に疎開させられたのだ、という。戦後、高校を卒業するまで甲佐で生活されたそうで、お兄さまはエリス先生にとても世話になったとのこと。ルーテル教会のない沖縄の地で、ルーテル教会の宣教師であるエリス先生の名前を聞くとは、まったく不思議な出会いであった。・・・』(引用おわり)
 美術館では、今回も佐喜眞館長のお話を聴くことが出来ました。屋上から夕日を眺めると眼下に普天間基地が広がっています。年末でもあるのに、ヘリコプターが爆音を立てて訓練をしている様子に、耐えつつ基地と暮らす沖縄の人たちの苦い日々を思ったのでした。

⑦沖縄で学んだことを語ること

 今回、「週報付録」の場を借りて、仕事で行ったわけでもない沖縄の旅の様子を報告させて戴いています。すでに長期連載!?になってしまっていますから、関心のない方々には申し訳ないという他ありません。けれどもこの報告が、わたしのやむにやまれぬ思いであることをどうかご理解戴き、もう少しおつきあいいただきたいと思うのです。
 沖縄には、かつて大きな痛みがあり、その痛みは今に続いています。どのような戦争の経験であれ、それを語ることにはさまざまな苦痛が伴うでしょう。それでも直接経験し、またその体験に寄り添ってきたからこそ語らねばならないという重い責任感の中で、日本で唯一地上戦を経験した沖縄での言葉は紡がれているのだと感じるのです。それは、今に続く基地問題もまた同様です。現状を変更し、未来に平和をつくり出すために、今回プライベートな旅であるにもかかわらず、多くの方が沖縄の現場を案内し、沖縄が負わされてきた、また現在その渦中ある痛みについて丁寧に説明し、またご自身の思いをも語ってくださいました。そのようにして紡がれてきた言葉を、個人の胸の内に収めて終わりにしてしまうのでは、語り、書くことを生業にする言葉の紡ぎ手の端くれとして、責任の放棄になりかねない。また、なんでも覚えておくことの難しい性分でもあるわたしのことですから、語ってくださった方々の思いに応えるために、たとえ拙ない文章であっても、今、それを自分の言葉で語り直し、記録していかねばならないと、改めて思わされているのです。そういうわけで、この連載はもう少し続いていきます。冗長になりがちな報告にもう少しおつきあいいただいて、年末の慌ただしい時期に時間をつくって語ってくださった沖縄の方々の思いを、少しでも心に留めていただけるなら幸いです。

⑧命どぅ宝の家

 那覇空港に到着した日とその翌日までの学びを報告してきました。夕方遅く、佐喜眞美術館でその日案内して下さった望月牧師と別れたわたしたちは、レンタカー2台に分乗して沖縄島の中部に移動し、名護市からほど近い本部町のホテルに宿を取りました。翌朝9時のフェリーで伊江島に渡るためです。伊江島には、今回姉が強く訪問を希望し、わたしも前回の渡沖で希望しつつも訪問が叶わなかった「命どぅ宝(ヌチドゥウタカラ)の家」があるのです。おかげで旅の日程はかなり無理をすることになり、82才の母を連れ回すような格好になったのですが、それでもこの地を訪ね、島の人たちの生きた声を聴かせていただけたことは、この旅のハイライトのひとつでもありました。
 熊本の教会におりました頃、教会でドキュメンタリー映画の上映会をしたことがありました。記録映画「教えられなかった戦争・沖縄編-阿波根昌鴻・伊江島のたたかいー」という映画です。アメリカ軍の銃剣と暴力に屈せず、土地と民主主義を守る闘いを沖縄・伊江島で戦い続けられたのが、この映画の主人公である阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんであり、この命どぅ宝の家を作られた方なのです。伊江島は沖縄戦で多くの犠牲者が出た激戦地でした。戦後も、島を占領した米軍は島の飛行場を訓練基地として使用する一方、1953年に土地収用令を出して島の大半を軍事基地として占拠してしまいました。耕す土地がなくなった島民は生活に困窮し、子どもたちは栄養失調で次々と倒れていったのです。阿波根さんをはじめとする島の人たち“島ぐるみ闘争”でこれに抵抗し、一時は島の63%を占めた軍用地の約半分を返還させるところまで戦い抜いたのでした。その闘いは、まさに「闘争」と呼ぶにふさわしい激烈な闘いでありつつ、しかし内村鑑三に師事した阿波根さんの“反戦平和”と“非暴力の抵抗と共生の思想”に貫かれたものでした。その思想がアタマの中だけにあるのではなく、闘いの中でほとばしり出るものであったことが、この小さな反戦資料館の展示を見ればよくわかります。壁面に、伊江島土地を守る会の陳情規程(1954年)が大書してあります。米軍や日本政府の卑劣ともいいうる嫌がらせや挑発に屈することなく、高い精神性を持ってこれに対峙した伊江島の闘いは、日本の運動史に残る闘いであったといえます。
 元旦の礼拝の説教でも少し触れましたが、わたしが1番こころを動かされたのは、入口付近に展示してあったボロボロになった赤ちゃんの肌着でした。70年以上も昔のものですから、だいぶん変色してしまっていますが、うっすらと血の跡が残り、そこには、明らかに銃剣で突き刺した穴が空いています。説明書きには、このようにありました。「1945年4月16日、アメリカ軍が伊江島に上陸しました。日本軍は、『泣く子は利敵行為だ!』と、母親の胸に抱かれていた赤ちゃんを銃剣で刺し殺しました。赤ちゃんは母親の腕から滑り落ちて、母親の手にはこの着物だけが残りました」。戦争そのもののもつ悲惨さを象徴する展示だといっていいと思います。阿波根さんは、そのお母さんの腕の中の赤ちゃんが刺し殺される場面を、その場で、その目で見ておられたのだそうです。そして後にそのお母さんから直接この肌着を譲り受けたのだということでした。このような戦争を二度と起こしてはならないし、二度と島を戦場にしてはならないという思いで、阿波根さんは島ぐるみ闘争を戦い、命どぅ宝の家を建てられたのでした。廃材を使って建てられたというこの家は、狭く、古く、手作り感に満ちています。しかし、その展示に目を凝らすなら、平和をつくり出すために必要な知恵に満ちていると思えました。
 展示を見終わった後、阿波根さんの養女であり、現在の館長である謝花悦子さんのお話しを伺いました。謝花さんは、阿波根さんの「平和の武器は学習」という言葉を紹介して下さり、かつて「アメリカは地球の反対側だから暗くてみんなものが見えない」「だから竹槍でも勝てる」と教えられたこと、だからあなたがたが学ばなければ、国に騙されてしまう。戦争の準備は着々と進められ、軍事費は増大し、米軍の核の演習場は数年前にすでにこの伊江島に完成している。政治と教育は結びついていて、国は国に都合のよいことしか語らない。平和のために学び続けて欲しい、と熱く語ってくださったのでした。

⑨伊江島の風の中で

 後ろ髪を引かれる思いで謝花さんとお別れし、命どう宝の家をあとにしたわたしたちは、姉の知り合いである榎本空さんご一家を訪ね、伊江島を案内していただきました。榎本空さんは、「ちいろば牧師」として知られる榎本保郎さんのお孫さんにあたり、お父さまの榎本恵牧師は、阿波根昌鴻さんの晩年に伊江島で阿波根さんから学びつつ、その生活を支える働きをなさったあとに、献身して牧師となりアシュラム運動に取り組んでおられる牧師さんです。この榎本恵先生の尽力の中で「反戦平和資料館命どう宝の家」は、法人化をなしとげ、阿波根さんの召天後も平和を伝える家としての役割を担うことが出来るようになったのでした。阿波根さんとの出会いとその思想を綴った『負けて勝つとは』(写真)は、伊江島の闘いと阿波根さんの実践を学ぶ格好の教科書といえます(希望者にはお貸しいたします)。
 恵先生のご子息である榎本空さんは、子ども時代を伊江島で過ごし、台湾、スイス、京都(同志社)などで学びながら、アメリカのユニオン神学校で、ジェームス・コーンという黒人神学の大家のもとで勉強なさいました。その学びの日々については、『それで君の声はどこにあるんだ?—黒人神学から学んだこと』(榎本空 岩波書店2022)に詳しいのですが、今の自分の課題は、黒人が差別との苦闘の中で言葉化してきた黒人の神学をただそのまま日本に紹介する、ということではなく、伊江島で育った自分が、沖縄の反戦の取り組みが刻まれているこの島の風の中で、島の人たちとの出会いと、その闘いの記憶をベースにしながら、コーンに学んだ神学を、そこに響きあう自分自身の言葉を通して紡いでいくこと。そのために、現在、論文の執筆に取り組んでいるのだとお話しくださいました。
 榎本空さんのご家族とともに、今も島の大きなエリアを占める海兵隊演習場や、伊江島土地を守る会が土地闘争の拠点とした団結道場などをまわり、この伊江島の赤土に染みこんだ、土地を取り戻す闘いの記憶について、わかちあってくださいました。
 誰でも、自分が腰を据えている場所があり、その場所、その立場を離れては自分の言葉を語ることは出来ません。借り物の言葉ではなく、自分自身の言葉を語っていくためには、自分自身が、自分の場所にあって、誰とともに、何を大切に、どのように生きようと願うのか。そのことを抜きには、紡がれた言葉は生きたものにはなっていかない。論文と説教、その枠組みは違っても、言葉を紡ぐことを生業とする者のひとりとして、わたしよりもずいぶん若い榎本さんの、言葉に対する誠実な姿勢に、自分自身の腰の据え方をあらためて問いかけられた思いで、わたしたちは慌ただしく帰りのフェリーに乗り込んだのでした。

⑩辺野古基地反対運動

 午前中の数時間で伊江島訪問を終えたわたしたち家族は、榎本空さんご一家に見送られて再び船上の人となりました。船の中で慌ただしく昼食をとり、本部港から今度は辺野古へと向かいます。
 そもそも、世界一危険と言われる宜野湾市の普天間基地を返却するとの約束が、沖縄での新基地建設とセットにされてしまってることが理不尽な話です。きっかけとなったのは、1995年の米兵による沖縄少女暴行事件でした。沖縄で反基地の機運が高潮し、基地の整理縮小や地位協定の見直しが改めて政治課題となったのです。しかし5-7年以内の返還を目標とするとされた代案作りは難航します。1997年には、すでに一部を米軍が使用していた名護市辺野古の海上を大規模に埋め立てる案がに浮上。地元沖縄の反対の声を押し切って、政府は2002年に計画案を固めます。一方で、米国では軍事費削減のための海兵隊の基地縮小再編の機運があり、2004年に普天間で大学キャンパス内に米軍ヘリが墜落する事件が起きたこともあって、普天間基地のグアム移転案が現実性を持って検討された時期もあったのでした。普天間返却の約束は先延ばしにされたまま、政府は辺野古案に固執し、くり返し県民による反対の意思表示がなされてきたにもかかわらず、2014年には辺野古の埋め立て工事がはじまってしまいます。地元の反対運動は根強く、建設現場周辺での非暴力行動によって、2016年に一度は「工事中止」を勝ち取るに至りました。しかしその後工事は再開され、2019年には軟弱地盤の問題が明らかとなって、当初3500億円と見積もられた経費が1兆円近くまで膨らみ、建設計画の実現性すらが不透明となっているにもかかわらず、今もなお、日々土砂を海へと投入する埋め立て工事が続いているのです。
 辺野古では、基地建設に反対する戦争体験者や若者たちが、土砂搬入のためにダンプカーが通る工事現場のゲート前で連日座り込みを行っている他、海上でも小型船舶やカヌーといった海上行動チームが沖縄の貴重な自然と環境を守り戦争をさせない社会をつくりだすために少しでも基地建設を遅らせるための抗議行動を行っています。
 わたしたちは、辺野古の問題を現地で担うために、3年前、70歳で名古屋から沖縄に移住された島しづ子牧師(教団うぶざと伝道所)らの案内で、拠点となっている民宿クッションやゲート前・辺野古漁港横など3つのテント小屋を案内していただきました。コロナ禍で”本土”からのボランティアも来られなくなる中、島しづ子牧師は、沖縄に移住後に小型船舶の免許を取得し、“船長見習い”として海上での抗議行動を牽引しておられます。今回、年末の訪問で埋め立て工事もお休みに入っていたため、抗議行動の方もお休みの日であったのですが、島牧師や、テントを訪れる支援者に、辺野古基地建設の問題点を解説して下さる本部町戦跡保存会の中山吉人らの協力で、辺野古の基地問題を慌ただしくも丁寧に学ぶことが出来ました。折しも、座り込みのテントに人がいなかったことを揶揄して笑いものにするユーチューバーが話題になった直後のことであり、お気楽な言論人気取りの彼のような人にこそ、しっかり沖縄の現地の人の声に耳を傾けてもらいたい、という思いを強くしたことでした。また、そのような人の痛みを知ろうともしない人たちの言説が大きく取りあげられたりしてしまうからこそ、たとえ少人数しか眼を通さないであろうこのような小さな媒体においても、丁寧に現地の声を届けていく役割を担いたいという思いを強くしたことでもあったのです。みなさまには、ただの3泊4日の家族旅行のお話しに延々おつきあいいただいたわけですが、この連載を丁寧に書かねばならないという思いに駆られた牧師の思いを、少しでも汲みとっていただけたなら幸いです。
 翌日、北海道まで帰るわたしたちはひと足早く一行と別れ、飛行機の遅延により余分な東京泊を余儀なくされるハプニングに見舞われながらもなんとか函館に帰ってきました。ちなみに「母親をはじめての沖縄に!」という姉の大号令は単なる勘違いでしかなく、母は2回目の沖縄だったという結末も、我が家らしいオチであったと思います。-コ

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