先に天に召された方々を覚えての礼拝となります。けれど、それは悲しみを覚える日ではありません。先に召された方々は、今まさに神の御許に招かれて平安の中で過ごしていることを覚える日であるのです。そのことの中で、私たちは今も、場所は違うけれども、一緒に生き続けていることを覚える日なのです。そう考えると、寂しさも和らぐのではないでしょう。
私たちの持っている理屈では、「死」は悲しむものではありませんが、そうは言っても結局悲しいものは悲しいのです。ですから、私たちはこの日を通して、慰めと励ましとを受け取っていくのです。共にそのような恵みを受け取れたらと思います。ぜひ教会にお越しください。