映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」から

[函館教会週報付録⑩12/29号より]

シネマアイリスで、標記の映画を観てきました。荻野吟子さんは、女性が医師となるなど考えられない時代にあって、志を持って道を切り開き、日本初の女性医師として、社会の周縁におかれていた女性たちに医療を通して尽くしたひとりのキリスト者でした。彼女の思いを支えたのは、「一粒の麦、落ちて死なば、あまたの実をむすぶであろう」という聖書のみ言葉であり、また荻野さんの伴侶としてともに歩んだ伝道者、志方之善さんでした。今回、この映画を観たのは、志方之善さんが、今金町にキリスト教の理想郷としてインマヌエル村(神丘)を開くために入植した道南ゆかりの人物であったこともありますが、わたしの知り合いのご家族が、この映画のメイキングDVDの音楽を担当しておられ、そのDVDを送って下さったこともきっかけのひとつでした。

 わたしは、長く熊本で伝道させていただいたのですが、日本のプロテスタントの3大源流のひとつといわれる熊本バンド(他に札幌バンドと横浜バンド)というのは、わたしの出身校である同志社の礎を築いた方々を輩出した熊本洋学校の元生徒たちであり、明治9年に、熊本の花岡山という丘の上で、キリスト教による奉仕を誓って盟約を結んだ青年たちの集まりであるわけです。今でも毎年記念日の1月30日の早朝には、超教派のクリスチャンやミッションスクールの生徒たちが花岡山の上で早天祈祷会を行うのが熊本の風物詩となっており、わたしも時折参加させてもらっていました。この熊本バンドのメンバーで、後に九州学院の英語教師もなさった松尾敬吾さんが、わたしの母方の親戚にあたるという話も、もう熊本の離任が近くなってから母から知らされたことでした。  志方之善さんは、この熊本バンドの面々と同じ熊本県の出身で、同志社に学んで新島襄牧師から受洗し、北海道にキリスト教村を築こうと入植し、荻野吟子さんと協力して、瀬棚や浦河でも宣教なさった、熱き伝道者でした。  わたしの曾々祖父もまた、新島牧師から受洗したキリスト者医師であったということで、熊本と道南をつなぐいろいろな糸のつながりを感じたことでもありました。  荻野吟子さんについては、わたしはほとんど前知識のないまま映画を観たのですが、彼女の生涯は、先駆的、開拓的、信仰的、献身的であって、その波瀾万丈の歩みは、とても2時間ばかりの映画で語り尽くすことは難しいと感じさせる、豊かなものでした。  彼女の生涯とともに、あわせて興味深かったのは、この映画を撮影なさった山田火砂子さんという映画監督です。かつては舞台女優であった彼女が映画監督に転身したのが64才の時。重度の知的障がい者であるご自身の長女さんとの生活を取りあげた長編アニメ「エンジェルがとんだ日」によるものだそうです。日本で始めての知的障がい者のための福祉施設である「滝乃川学園」を創設した石井亮一・筆子夫妻を描いた「筆子・その愛-天使のピアノ-」のメガホンをとったときに、石井夫妻の支援者であった荻野吟子さんのことを知り、ひとつの作品に仕上げたいと取り組まれたとのこと。御年87才です。次回作では、大正時代の女子教育者で、日本キリスト教婦人矯風会の初代会長。そしてこれも熊本県出身の矢嶋楫子をとりあげたいとのこと。高齢。腰痛、高血圧に加えて腎臓をも患いながらも、メガホンを執る熱意に衰えはないようです。  「一粒の麦 荻野吟子の生涯」は、シネマアイリスで、すくなくとも1月2日までは上映中。別に、わたしが知り合いから送っていただいたDVD「メイキング・オブ・一粒の麦 荻野吟子の生涯」がありますので、こちらは貸し出し可能です。DVDでメガホンを執られる山田監督の様子を観るだけでも、なかなかにはげまされる経験です。  そのうちに、今金町や瀬棚町に、荻野・志方夫妻の足跡をたずねてドライブしてみたいと考えているところですが、いずれにせよ雪が解けてからの話ですね。[コイズミ記]

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