“主の祈り”を祈ろう 学ぼう-新型コロナウイルス禍の収束を願って

函館ルーテル教会週報付録 先行配信 2020.4.5 No.14 <18>

■呼びかけ
 先週の日曜日、新型コロナウイルス禍の収束を願って”主の祈り”を祈りましょう、と呼びかけました。この提案の直接のきっかけは、3/22の教皇フランシスコの呼びかけです。なぜ、カトリック教会の教皇の呼びかけを受けとめたかといいますと、この呼びかけがカトリック教会の信徒だけにむけた呼びかけではなく、全世界のさまざまな教派のキリスト者にむけた呼びかけであったからです。その呼びかけは、次のようなものでした。
「すべての教会指導者とすべてのキリスト教共同体の指導者、そしてさまざまな教派のすべてのキリスト者の皆さんに呼びかけます。わたしたちの主イエスが教えてくださった祈りを、いと高き全能の神に向かって一斉に唱えましょう。ついては、一日に何度も祈るようにお願いしたいのですが、この水曜日、3月25日の正午(日本時間午後8時)には、全世界で一斉に”主の祈り”を唱えましょう」。これは教派を越えての呼びかけであるという点で異例の呼びかけでした。

■世界の痛み
 現在、新型コロナウイルスの影響は世界中でひろがり続けています。幸いにも函館では、この1ヶ月間新たな感染者は報告されていませんが、世界では4万5千人以上の方々が亡くなられ、外出の自粛が要請され、学校は休校になり、店舗は閑散とし、経済は疲弊し、世界は不安に包まれています。多くの教会が礼拝すら休会にせざるを得ない事態に追い込まれています。礼拝を守ることが出来ない教会の方々の痛みを思います。しかも、世界の痛みを目のあたりにして、わたしたちに何ができるのか、という道筋すらはっきりと示されないのです。けれどもそのような中で、キリスト者には祈ることが許されています。そして主の祈りこそ、”世界を包む祈り”として最もふさわしい祈りだといえます。主の祈りは、聖書に根拠をもち、カトリック教会も、東方正教会も、プロテスタント教会も、すべてのキリスト者が思いをあわせることができる祈りだからです。

■”主の祈り”を学ぶ
 先週の礼拝後には、コロナウイルス禍の収束を願って、この祈りを1日に少なくとも1度祈ることを、事態の収束までのわたしたちの習慣にしましょう、と呼びかけました。我が家では朝食前に祈ろうと家族で相談しました。しかし”主の祈り”は、礼拝でも毎週唱えられる”主の祈り”であるがゆえに、ともすれば呪文のように、言葉を思いに寄り添わせることなく機械的に数十秒を過ごす、ということがしばしば起こってきます。そこで、わたしたちの教会で今週から再開した聖書の学びで、この”主の祈り”を取りあげることにしました。この聖書の学びの時間も、事態の推移によってはすぐにまた休会せざるを得ないかも知れません。けれども、許されるまでこの学びを続けながら、学びの場に出てくることが難しい方々が多いこともかんがみて、先週の学びの一部をこの週報付録でおわかちすることにしたいと思います。わたしが用いるテキストは、主として鈴木正久先生の『主よ、み国を』とティーリケ『主の祈り 世界を包む祈り』です。

■祈ろうとしない祈り
 わたしたちが主の祈りを学ぶのは、この祈りが、単なる「上手いこと短くまとめてある祈りの見本」であるからではありません。もちろんこれがイエスさまが教えてくださった祈りだからなのですが、この祈りは単なるわたしたちの祈りの見本ではないのです。なぜわたしたちが、この祈りをイエスさまから教えていただくのか。それは、この祈りが、わたしたちが祈ろうとしない祈りであるからです。イエスさまが教えて下さらなければ、わたしたちはこのようには祈らないのだ、ということをまず覚えたいと思います。
 どんな宗教を持っている人でも、またキリスト教の牧師や信徒でも、みんな祈りを捧げます。けれども、わたしたちの祈りというのは「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように」(マタイ6:9)、というようなものではないのです。多くの人は、神社の本殿の前で、お賽銭を投げ入れて「商売繁盛」とか「無病息災・良縁祈願・学業成就」、そして「立身出世」を祈ることでしょう。けれども、それは「私の名前が名誉を受ける」というようなことであって、「み名があがめられる」ということではありません。わたしがみんなから立派な人間だと思われることを、わたしたちはまず願っているのです。そして、わたしたちが心の赴くままに祈るのであれば、それは「み心が行われるように」という祈りではなく、「自分の思いが叶うように」という祈りです。またわたしたちは「わたしに害を及ぼしたものを許します」とは祈りません。「あんな人たちは、早く力を失いますように」と願いながら祈るのではないでしょうか。「わたしの罪を赦してください」と祈らずに、「あの人の罪を正してください」と祈っている。つまりこの”主の祈り”は、わたしたちの気持ちを上手に代弁してくれた祈りではなく、わたしたちが祈ろうとしない祈りなのです。

 たとえばもし”主の祈り”が「神さまどうかわたしの働きが、みんなから良い働きとして認められますように。わたしが計画していることにみんなが賛同してくれますように。わたしに反対する人は黙らざるを得なくなり、わたしの正しさが、みんなの中でますます明らかになりますように」というような祈りであったなら、わたしたちは何も教えられなくても、喜んで実感を持ってこの祈りを祈るでしょう。牧師であっても信徒であっても、わたしたちの祈りは、結局はこのようなところに留まっていくのではないでしょうか。だからこそ、わたしたちは主の祈りを祈り、また学び、自分の祈りを検証していかなければならないのです。

■わたしたちの羅針盤として
 ですから、もしわたしたちが心を込めて主の祈りを祈れない、というのであれば、それはむしろ当然のことです。逆説的にいうなら、こうしたキリスト教的な祈りは、この世的には共感されない祈りなのです。けれでも神さまは、わたしたちを獣のようなものとして創造なさったわけではありません。わたしたちが単に、自分が欲しいあれこれを祈るという事だけであるなら、わたしたちの神さまはAmazon.comで充分です。しかしそうではなく、神さまはわたしたちに理性を与え、神さまとの交わりに招いてくださいました。ですから、わたしたちはまず「神の国と神の義」を祈り求め、その上で必要なものを「みな加えて与え」(マタイ6:33)てくださる神さまに信頼するのです。主の祈りは、わたしたちがそのような成熟した真実の人間になっていくために、その方向性を指し示しているといえるでしょう。
 世界に数多の教派が乱立する今でも、みなが帰って行くことができるひとつの祈りがあるというのは、なんと恵まれたことでしょうか。わたしたちはこの祈りを通して、自己を省み、世界の執り成しを祈っていきたい。世界が苦しむ中で、教会に何ができるかという事が非常に見えにくい。そのような中で、わたしたちがこの祈りを繰り返し祈り、思いを深め、また重ねていくときに、この祈りは、わたしたちがどちらに歩んでいくべきか自問自答するときの、正しい羅針盤の役割を果たしてくれるのではないでしょうか。[4/2 聖書の学びの一部より]

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